「好き」を自覚すること
親が親なら子も子
備忘録4
仕事とか、自分の生活の充実度は、貢献感で決まるらしい。
取引先に喜ばれる、家族の役に立つ、等々。
社会人としても人間としてもペーペーのわたしは、まだほんの身の回りの人の役に立てているかも怪しい。
今のところ会社では、先輩の事務処理マンとして役に立ってるようだけれど…
誰かの役に立っている、誰かに必要とされている、というのが貢献感だとすると、
子供を欲しがるのも、仕事を頑張るのも合点がいく。
無意識に、自分が役立てる場所を見つけ出してる。
それは全て結果論であって、やりたいことがたまたま人の役に立ったというのが本当だろうなと思う。
貢献感がほしくてすることは、目的と結果が逆になっててなんだか虚しい。
つまるところ、人生の充実感を得るのはめちゃめちゃ難しい。
ただ一つ言えるのは、何もしなければ貢献感とか充実感は得られないということだなと分かった。
というわけで、今は目の前の仕事頑張る。
ものを売ること
私の仕事は営業職。
広告の枠を売っている。
仕事をし始めてまだ4ヶ月目だけれど、すでに自分の中にジレンマが生じているので、ここに書き留めておきたい。
上司に「青い」と言われ、もやもやした話。
私の仕事は営業職。
会社をまわすためのお金を集めてくる場所。
モノを売るために、駆け引きし化かし合い、お金をかき集める。
相手の課題解決とかなんとかの建前なんて、あってないようなもの。
お金のあるところに行ってたかって、最低限のお金を引っ張ってくる。
この、お金のあるところにいく、というのがネックで、特に広告なんかはすでに有名な企業や組織でなければ、大きなお金は動かない。
本当に広告を必要としているところは、規模が小さかったりしてそもそもお金がない。
かといって、お金のある企業も、簡単には出してはくれないけれど…
ジリ貧で助けを必要としているところに何か自分ができることは、という思考回路なので、こういう広告の仕組みがどうしても気にくわない。
大きなところはますます大きくなって力をもつし、小さなところはどんどん淘汰されていく。
世の中弱肉強食。
広告業界は資本主義の権化。
理解しているつもりでも、わかっていなかった。
けど、今の世の中を見ていると、モノが売れなくなり、個々人は自分で必要なものを必要最低限、自分で見つけてくることができるようになった。
マーケティングとか広告自体があまり意味を成さなくなってきていると感じる。
(就職活動のとき、そういう現状を頭でわかっていたけれど、背に腹は代えられない状態だったのがくやまれる。)
会社に入るということは、どこまでも利益や売り上げ、お金と向き合っていかないといけない。
お金を集めなければ、会社は成り立たないのは重々承知。
けど、資本主義オワコンだから、それなら公共性の高さをもっと困ってる人たちのために使えないのかと思ってしまう。
困ってる人たちを助けるというのは、とてもウエメセでいやらしい感じはあるけれど、それでも何かがかわるなら、手助けしたいと思う。
青いな、
これを書きながら思ったけれど、自分が愚直すぎて、本当に社会に向いていない。
マトモな社会人はできないなと思った。
NPOとかに入ればいいのかな。
早く、自然にかこまれながら、都会と違う刺激のある田舎で暮らしたい。
人間の黒いところを見るのが辛くなってしまった私は、上司の言うように青い。
でも、青さを捨ててしまえと思えるほど、社会に染まりたくもない。
甘いしわがままと思うけど、もうしばらく葛藤してみたい。
おわり。
自分を大事にすること
ここ最近、全く文章を書いていなかったので久しぶりに。
そもそも、このブログを書き始めたのは
就職活動と当時付き合ってた人間から
相当なストレスを感じていて、
どうしてもどこかに吐き出したくなったから。
かといって、家族や友達に剝け剝けに
話すのは引け目を感じてしまう、、
と思うと、結局自分の中に溜め込んでしまっていた。
「わたしは大丈夫。」と思っていたけれど、
吐き出せない苦しみは
無意識のうちに蓄積していて、
体がついていかなくなった。
立ちくらみは酷いし、寝られない。
倦怠感もハンパない。
ずっと死にたかったし、今思うと相当キてたな。
ただ、なんだかんだあって、
なんとか今の会社に拾ってもらって、
サイコパス元彼ともおさらばして、
我ながらこの一年は
よく頑張れたな、と思う。
昔から、引き寄せの法則だなんだ言って、
常に笑顔でいれば幸せが寄ってくるとか
オカルトにもほどがあることなのに、
それが真実だと母親から言い聞かされ、
ハッピー教に入信させられていたのですが
ここ最近でそれは心を蝕むとよくわかった。
自分の本音を心の隅においやっていきてきたから、
自分の心にかえって疎い、
自分の心がかえって理解できない、
みたいな状態だった。
嫌なことはいやだ、しんどいことはしんどい
言葉に出さずとも、自分の心をきちんと汲み取ることが
本当にできてなかったんだ、と自覚した。
人の喜びに貢献できるのはとても嬉しいこと。
でもそれは自分が満たされた状態だからできること。
その前に、自分の心に忠実に、
ちょっとくらいわがままで生きてもいいんだなと思った。
だから今は、ちょっとずつ、
自分を大切にすることを学んでいる。
自分自身を引き合いに出す親
子供が悩みやわがままをありのまま親に打ち明けたとき、それを丸め込むために、自分の時代はこうだったとか、自分はもっとしんどかったとか言う親。
ほんとうに害しかない!!
子供よりも長く生きてきた(笑)親からすれば、子供にとって重大な悩みや苦しみは、ただのわがまま・我慢の出来なさだと捉えてしまいがちなのだろう。
しかし、そこに親自身の体験を引き合いに出し、あなた以上に自分はもっと辛い思いをした、などといわれましても…
ハア、そんなこと知ったこっちゃないわ!という感想しか出てきません。
親の辛かったエピソード子供に聞かせて何がしたい?
逆に子供に、辛かったねって共感してもらいたいの?
そんな話を聞いて、子供が、自分の環境はまだまだマシだな、とかいって反省して前向きになるとでも?
勘違いも甚だしい。
"親子"という絶対不変の関係性がある以上、子供は親の辛かったエピソードを聞かされて何を感じるかというと、自分の思いを無視されたということ、なおざりにされたということ、自分を受け入れてもらえないということなのだ。
子供は悩みを相談して親に甘えるどころか、親に甘えられてしまうのだ。
重荷でしかない……
しかも親自身がそういう辛かったことを話してる時点で、誰かに認めてもらいたいという気持ちが前面にでてしまっている。
自覚もないのがまたたちが悪い。
こういうタイプの親は、気の毒に、親自身も家族や両親に受け入れられず育っている。
ことあるごとに口出しされ、文句を言われ、やる事なす事反対され、そんな親子関係であったり、よくいう機能不全家族で育ったりした人間だといって間違いない。
そういう経験をして、自分はたくさん我慢してきたんだ、だから子供も我慢すべきだ、という調子で負の連鎖が受け継がれていく。
しかし、親自身はこういう負の連鎖を覚悟を持って断ち切らないといけない。
親は絶対的に子供を受け入れる必要がある。
それが無償の愛のかたちだから。
そもそも、親子とはいえ親の価値観や経験を子供が共有しているわけではないし、子供の価値観や経験を親が共有しているわけでもない。
親と子供という個人と個人がいるだけなのである。
子供に理想や自分自身を投影することは子供にとって百害あって一利なしだ。
そこを履き違えちゃいけない。
本来子供と対峙した親は、子供にとって絶対的な存在であると同時に、全てを許し認める地母神である。
それが子供にとって最高の環境なのだ。
おわり。