必殺博愛固め

日本語の練習

備忘録2



「そもそも世の中は不平等だから」

だから?どうするの?というところがこの言葉にはない。

世の中は不平等と理解しているけれど、その状況を甘受してる。



自分の身近な人から聞かれた言葉だけど、少しショックだった。


状況を理解しているにもかかわらず、自分は無関係と言わんばかりに思考停止してしまってる。

お金の話とか自分自身の話ではないけれど、ちょっとした配慮とか思いやりで多少なり状況がよくなることだって多々ある。

そこをスルーしてしまってる自覚はあるのだろうか…




こうやって、「不平等だ」ということ肯定しつつ、それ以上踏み込みもせず他人事でいる人がマジョリティだから、世の中は変わらないのだなあと思った。





アクセサリー感覚



誰だって自分を少しでも綺麗に、良く見せることができるアクセサリー


高級品がもてはやされ

気に入らなければ付け替え可能であり

ときに自分のオリジナルまで作れるものであり


自分がいいと思ったアクセサリーを身につければ気分もあがるし、

お気に入りを褒めてもらえればこちらも嬉しい…


















ここまできて、本題はジュエリー的なアクセサリーのはなしではない。

「人間」のはなし。

わかります?






たとえば、




美女




これが男のアクセサリーになりうるのだ。




自分の彼女が美人だったら?

美人を落とすまでのプロセスも含めて、自分の自信になりません?

連れ立って歩いている「自分のモノ」に対して集まる視線すら誇らしくない?



もちろん、そういう美人彼女を人間として大切にしているならいうことない。


問題なのは、アクセサリーのように扱うこと。




自分の価値を上げるためだけの存在。

自分を良く見せるための付き合い。




ほんとにモノとしか見てない。

美人彼女が怒ったり悲しんだり、かみつこうものなら、即座に めんどくさい と切り捨てる。

モノならモノらしく、自分のいいなりでいてほしいのだ。

また、言いなりになるよう仕向けるのだ。


自慢のアクセサリーだから、時々友達なんかに気まぐれに紹介してみたり。



しかし、なんとまあ悲しいことに、こういう扱いをする男って、愛情とか愛着という概念がないから、いいものが手に入りそうだと、悪びれもなく乗り換えちゃう。

上を見ればきりがないから。




男はいいかもしれないけれど、言わずもがな、傷つけられるのは彼女。

よくあるモラハラに引っかかる例もこれにあれはまるのかも。



最初はいいように言い寄ってきて、蓋を開けてみれば、都合のいい女にされている。



もともとルックスがよいだけでなくて、

料理なんかもできるし、

メイクやファッション等々綺麗になる努力もしている。



これが全て、自分のためでなくて、

彼のため

になってしまっている。



まさにアクセサリー美女の特徴。



男からすれば、そこに勝手にいてくれるし、付き合ってるってだけで自分の価値を高めてくれる、世間体を良くしてくれる。



自覚なくアクセサリーにされているorアクセサリーになっている美女のみなさん、気をつけて…!!!!

(まあこういう場合、さっさと後釜見つけて乗り換えられてしまう方が、美人彼女にとっては将来的にはいいことなのかも。)


美女って、存在してるだけでチヤホヤされて、周囲が羨望するけど、こういう被害に遭うリスクも高い。

(何がいいのかはわかりませんね…)





(わたしは美女が大好物なので、全員幸せになってほしい!!!!!!!

なんなら女たち全て幸せになってほしい!!!!!!!)









…はい、次は






高給取り男






これも嫁のアクセサリーになりうる。




結婚を「夢見る」女たちは、あわよくば億万長者の旦那を手に入れて、いい生活をしたい。

セレブ妻として羨ましがられたい。

やり手の男に見初められた女(キラキラ)になりたい、的な?




これもほんと旦那を自分のステータスとしてしか扱ってない時点でアクセサリーと同じだ。



確かに、高給取りの男はいろんな場面でデキる人だから出世するわけで、人間的に惚れることもあるし、そういう人間性に惹かれてというのなら別に問題ない。


ただ、自分自身はあんまり仕事する気がなくてかつ必要以上に高給取りの男に執着する女が地雷なのだ。

まあそんな願望をあんまり表立って主張することはないと思うけれど。

とにもかくにも、いい生活がしたければまず自分が稼げばいいものを……





最近よく話題になる、

ママ友同士のカーストが旦那の収入で決まるやつ。

自分の身につけてるもので自分の価値が決まるとかなんとか。



自分にはなんの価値もありませんよ、って主張してるようなものなのに。

(本人たちにとっては、そういうやり手の高給取りの男に選ばれた女像というのを誇示したいんだろうなあ。)

みっともないたらありゃしない。





そういう嫁にかぎって、家では旦那をATMとしか扱ってないし、もはやアクセサリー以下…




自分を良く見せるために外で自慢することよりも、家の中で旦那様を労ったり話し合ったり感謝したりすることに力を注げばいいのになと思う。(小並感)












で、最後は





子供





これが最も理不尽で、多大なる影響を与えてしまう例だと思う。




親(特に母親)の子供に対する期待には計り知れないものがあるが、自分が持つ子供像や理想を押し付けて、子供をコントロールしてしまいがちだ。

自分が思い通りに育て上げられるモノ。

つまり、オーダーメイドのアクセサリーみたいなもんなのだ。




子供は素直だから親の言う通り、勉強したり、習い事に熱心になったりする。

時々、それが実って、高学歴になれたり、ある分野で活躍できたり。

母親がコーデした服を着せられ、ませた感じの写真がアップされることもよくある。

自慢のお子さんですね、なんて褒められた時には飛び上がって喜ぶ。



でも、結局それは親(特に母親)のステータスを上昇させることが目的なのだ。

「あなたの将来のためよ」、親が勝手に思い描いた理想像に子供を導くための甘言を吐く。

子供の多様な可能性やオリジナリティを潰し、思い通りに扱おうとする。

子供は親にとって、本当に都合のいい装飾にされがちだ。



「自慢の息子or娘」なんて言葉は死語にしてしまいたいレベル。

子供は自慢するモノではない。



旦那のパターンと被るところがあるが、ここで違うのは、アクセサリーにされる人間に反抗する力があるかどうかだ。




子供にとって親はほぼ絶対的な存在。

抵抗する余地もなくこんな育てられ方をした子供は、自主性を損なわれ、自尊心も育たない。

本当に気の毒でしかない…

理不尽極まりない…















以上、わたしが見てきた例三点あげてみた。

身近な人間をアクセサリー扱いする人というのは、自分に自信がない場合が多い。

でもそのくせ、プライドや自尊心は高いから、アクセサリーでもなんでも身につけて、周囲からの評価を上げようと必死なんだと思う。




そもそも、ジュエリーとか必要以上につけたがる人って、自信がないからとかいいません?

いけないことだけれど、人間アクセサリーをつけたがる人も自信がないから、自分以外のモノで自分を高めようとする。


そんなことしたって、モノがなければなんの取り柄もなくなってしまうのにな。

取り繕わず、まず自分で自分を磨く努力をすべきなのにな。


そういう人はほっといても何処かで自滅すると思っている(!?)ので、それはさて置き、

こわいのは、サイコパス的に、人間をアクセサリー化する人なのだ。



サイコパスの脳内では、自分以外の人間はモノとして認識するそう。



そういう人にアクセサリー化されてしまうと、気づかないうちにコントロールされるし、精神消耗する。

自分でも無意識にそうなってしまうのが本当にこわい。


あまりに自分に対する心配や共感、感謝や適切な愛情表現がなければ、これを疑った方がいいのではないかと…


わたし自身、周りの友達とか毒親を見ていて、いつかよくなるかも、という淡い期待が自分を苦しめるんだと痛感している…






周囲の見る目も変わる必要がある。

ほんとのアクセサリーは、身に付ける人に合ったものだからこそ、相乗効果的に美しく見えたりするもんだが、人間アクセサリーも時々そういう見方をしてしまいがちでもある。




美人な彼女がいるから?

稼ぐ旦那がいるから?

なんでもよくできる子供がいるから?





まってまって、それを自慢してる人をよく見て。

その人からっぽじゃない?

人間性おわってない?




恋人も家族もその周りも、身につけているモノに惑わされず、人としてサシで向き合ってみる。

自意識は置いといて、目の前の人に興味を持ってみる。

アクセサリーにしてる人もされてる人もそれを自覚するきっかけになるのではと。





ああ、今苦しんでる人たちがもっと幸せになってほしい。






そしてわたしは、アクセサリーを欲しないほど、自分で自分を満たすことのできる人間でありたい。(?)





おわり。

言葉と一緒に涙が

 

自分が心の中とか頭の中にためておいた言葉を、誰かに向けてアウトプットしようとすると、それと同時にどうしても涙が出てしまう。

これがまた、面接とか真剣に自分の意見を言う場面ほど、目がうるむ。

 

振り返ってみると小中学から現在に至るまで、学校の面談から部活の仲間で相談する場面、入試の面接、アルバイト、就職活動等々、毎回毎回泣きたくもないのに涙が出ることに悩まされ続けている。

 

私自身は勝手に涙が出る事象自体には、どうも思わなくなって(慣れて)しまっているのだけれど、話している相手からしてみれば、「ええ!ここ泣くとこ?」「何かひどいこと言った!?」「涙を武器にしようとしてる?」「メンタル弱いな」なんて印象をもってしまう。

涙を流してしまうことによって与える印象にいいことがあるはずない。

鼻水まで垂れ流しだし。

突然泣かれても、「え!?何なに!?」とおおよそ動揺させるか引かれてしまうかのどちらかだ。

 

特に面接なんかでも、思ってたことや考えたことを毎回スクリプトにして、それに沿いながら話すだけなのに、なぜかまた涙が出る。

いくら私が冷静に話そうと努めたところで、向こうからすれば泣かれてしまってはまともな判定なんてできるはずがない。

本当に損している、、、

 

そんなこんなで、「心の奥で考えてることをアウトプットすると涙がでる」という癖(?)があることは自覚していた。

けれど、原因を考えてこなかった。

 

 

 

これは心理作用?

緊張とか神経系の問題?

 

 

 

変な話だが、私はプレゼンなんかは得意な方だ。

ナレーションとか用意された原稿を、何百人の前で読むことも全く動じなかった。

ディスカッションも堂々とこなせるし何なら得意な部類なんじゃないかと思う。

 

なのになぜ、自分の話はこんなにニガテなんだろう...

 

大勢の人の前で話すことはもちろんとても緊張するけど、そういう場面で涙がでることはない。

自分自身とは関係のないところに関する意見とか考えは抵抗なく話せる。

だから自分の話で涙がでてしまうのは、何かの心理作用なのかなと思う。

 

 

 

自分について思ってることを言うことで何が起こるか?

 

 

自分自身に対して持ってる考えをいうことは、自分自身をさらけ出すことそのものだと思う。

要するに、否定されたり、受け入れられないのが怖いんじゃないか。

認められなかったらどうしよう、日々心の中で大切にしてきたことだから、受け入れられないということは私の根幹が揺らぐ、、、

自意識過剰的...???

 

でも、こうやって匿名のインターネットにはへらへらとかけてしまうのが不思議だ。

まだ怖さを知らないだけなのかもしれないが、、

 

 

 

 

 

普段から自分の本当の想いとか考えたことを、無意識のうちに抑圧していないか?

言いたい事を抑え込んでいないか?

受け入れられなくてもいい、否定されて当然ぐらいの気持ちの余裕もない。

情けない、、

 

 

 

普段考えてることをうまく言葉にするのは難しい。

そういうのもここで磨いていけたらいいなと思う。

もっと思ってることを口に出してみようと思う。

ちょっとでも自分をさらけ出すことのニガテ意識をとりのぞけたら、、、

 

 

 

 

あと、思ったけれど、涙は出そうと思って出るものではないですやっぱり。

俳優さんとか女優さんはきっと感受性が豊かだから、演技の中で、生きた登場人物そのものとして自然と涙が出てくるんじゃないかな。

どうかわからないけれど。

涙を武器にしてる人って、ほんとにいるの、、?

コントロールできるなら、それに越したことは本当にないなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

語彙力の高さは思考の深さ?


プロフィールにあるように、わたしはほんとうに生まれてこのかた20年以上日本を離れたことのない生粋の日本人なのに、母語の語彙力がないことが本当に苦しい。



普段からもやもやっと考えてることはたくさんある。

だけど、そのもやもやを形にする術がない。

抽象から具体に持ち込むことが難しい。

だから、こうやって文字にするのもとても苦労するし、考えてることを言い表せているのかも怪しいところがある…



逆もあって、言葉には辞書上の意味はもちろんだけど、成り立ちにも背景がある。

そういう言葉それぞれの微妙なニュアンスの違いを理解して使いこなせたら、頭の中の整理もできるし、言葉があることで、思考に広がりとか深みが出てくるんだなと感じる。






語彙力が豊かな人たちと話していると、この歳になって初めて、自分の表現力の乏しさを痛感させられる…





その分時々、もやもやっとしていたものを、誰かが言葉にしてくれたとき、はっとさせられる。

ボキャ貧にはそういう楽しみもある。


まあでもやっぱり、それを自分で言葉にできることにこしたことはないよなあ、というのの繰り返し。



辞書を愛読書にしようかしら。









けれど、言語化してしまえるものだけが全てかと言われるとそうではないと感じる。

確かに、言葉で表されると納得しやすいし、腑に落ちる。

言語化はある現象を切り取ることだから、ぼやっとした事象に普遍的な意味づけができる。

ただ、きりとれなかった、端切れのような部分はどうなるのか?




世の中に起こる事象って、もっとグラデーション的であいまいなのだ。

ひとくくりにできないほど多様で複雑で、ひとつひとつのニュアンスは突き詰めれば全く異なってくる。





ある意味、それを表す言葉がなくては、感じられない、切り捨ててしまうという状態がとてももったいないように思うのだ。



自分が表現するときはもちろんだけれど、誰かの言葉を読み取るときにも、言葉によって切り取りきれなかった部分に気を遣うことが大切だと思う。


そこが深みだったり趣だったりするのかも。







ボキャブラリーなさすぎることもしんどいけれど、ボキャブラリーにとらわれすぎるのもまた足かせになるのかなと感じたのでした。








備忘録1


理不尽への耐性がなさすぎることが、とても生きづらい原因になっている。


信じてたものに裏切られる、

不可抗力を咎められる、

心ない言葉を浴びせられる、、、




そこに原因なんてそもそも存在しないのに、責任を感じて病んでしまったり自分を責めたりしてしまう。(悲劇のヒロイン的要素もなきにしもあらずだけれど。)

理不尽はどうしても精神的にくるものがある。



昔は、学校教育の場で理不尽にシバかれたり怒鳴られたりということが今よりもずっと多かった。

そのせいで、ある程度耐性がある人はいるそうな。



これは決して教育の現場での暴力や暴言を肯定する意味で言ってるんじゃない。

少しの暴力がトラウマにつながったり、小さなことでも一生にわたる傷になることもある。


ただ、そういう軍国主義的な理不尽さが、たまたま私が話を聞いた人にとっては耐性をつくるきっかけになったそう。


うーーん、、、



理不尽にあったとしても、そこに、理不尽という事実があるだけで、「まあそんなこともあるか」と軽く受け流せたらどんなに精神衛生上よいか…


なぜ?どうして?と考えてしまうことが、かえって自分を苦しめる。

理由のないことなのに、それを問うてもどうしようもない。




理由や根拠のないものに対する拒絶反応というか、元を探ろうとするクセがついてしまっているのが、理不尽耐性のなさの表れか。




童心にかえりたい





夢中になれる何か(恋愛をのぞく)があることって、とても幸せなことだ。




やればやるほど楽しくて仕方がない、もっともっと学びたい、自発的にそんな風に思えるものはそうたくさんないはずだし、まして自分でそれが何なのか気づけない。





たまたま受験勉強に夢中になれたとすると、学校の勉強が楽しくて仕方がない。ずーっと教科書ノートとにらめっこ。

でもそんな人、現実にほぼいないでしょう。




だいたいみんな小さい時から親に、勉強が大事だ、大学に入れだのと言い聞かされて、何となく勉強に夢中になるふりをする。



夢中になってるふりをする!







そうやって勉強に没頭することを強要されて、他に本当に夢中になれるものがどんどん見えなくなってしまってる。

ただただ日々に流され、ぼーっと生きてるだけになってしまう。










仕事(お金をもらうこと)が夢中になれることかそうでないかで人生が大きく変わるにもかかわらず、大人たちは取り敢えず大学に入り、取り敢えず就職せよと言う。

社会に出て、社会のルールを学べという。




お金をもらう手段なんて、会社に勤める以外に腐るほどあるはずなのに。

生き方なんて、自分で作ればいいのに。







子供に辛い思いをして欲しくないとか、いい生活を送ってほしいとか、そういう気持ちがあるのは痛いほど分かるけれど、それは子供という他人の問題。

他人の問題を自分のそれと同一視をすることが、選択肢をごっそり削ってしまってるということになかなか気づけない。





かくいう私は宙ぶらりんの状態なので、あんまり偉そうなことは言えない立場だけれど…




でもこれだけは身をもって体感したから言えることだけれど、夢中になることの効用は、計り知れないパワーを生み出せること。

気づかないうちに驚くほど成長している自分を発見する。

失敗も、悔しい気持ちがかえって原動力になる。

人間関係に惑わされなくなる、小さなことで引きずられない。(優先すべきことがあるから)






仕事が、没頭するものでなく、夢中になれるものであることの意義は大きい。

楽しんでやってることがお金になるのだから。



そんな夢中になれるものを見つけてずーっと続けていけるということがこの上ない幸せなのではと。





もういい歳になってしまってからでは遅いかもしれないけれど、夢中になっていたかもしれないことを自分の中で発見していくのがこれからの人生を豊かにする一つの方法なのかも。






必殺博愛固め


わたしが保育園児だった頃、少年アシベを録画してもらって、繰り返し繰り返し見ていたらしい。
なすびあたまの元気なアシベとか、愛くるしいごまちゃんは今でもずーっとよく覚えてる。



先日、夕方テレビをつけると、たまたま懐かしい顔が画面に現れた。
アシベとごまちゃん…!!



調べてみると、20年ぶりにNHKでアニメが放送されているそう。
断片的な映像の記憶が、懐かしさとともにどんどん溢れてきた。



大人になって見てみると、見え方も全然ちがうものだなあ…







ん………?スガオくん?誰?






無口なスガオくんは小さかったわたしの記憶に残ってないキャラクターだった。





でも、なにこの不思議な感じ!?
一気に惹きつけられてしまった。



スガオくんは、ストーリーの中で一切言葉を発しない。
基本的にポーカーフェイスで、遠くにいる親友のアシベを思って泣いてばかり。
アシベ人形を常に連れて歩く。
喜び(顔には出さないが)のあまり、数日間不眠になるなど。
一方で、芸術の才能にあふれ、絵や工作が得意。







これだけ見れば、自閉症だの緘黙症だの言われるのもわからんでもないけれど、それは一旦置いとく。







少年アシベの中で、スガオくんって、ほんとに愛されてる。




両親はもちろんのこと、アシベはじめとしてイエティとかチットちゃんもみんなスガオくんのことが大好きだ。


スガオくんはスガオくんで、それを自覚してるのかどうかわからないけど、手紙を書いたりプレゼントをしたり、とても誠実で素直な行動をするのだ。
 



そんなスガオくんの必殺技は
博愛固め。



作中では、アシベが、喧嘩を売ってきたサカタの兄にくりだすのだが、しっかと相手をハグするだけという、技かどうかもわからないもの。
アシベにぎゅっとハグされたサカタの兄はひるんで逃げてしまう。


この技をスガオくんが考えたというのが、またなんとも言い難い愛おしさ…





スガオくんの無口の裏側にあるセンシティブさは、人一倍に、愛の力というかなんというか、柔は剛を制す、ではないけれど、そういうのを心得ているように感じたのでした。











今になって少年アシベの漫画を読んで分かった、登場人物何かしらブッとんだキャラクターしかいない。


アシベの世界って、普通の人間が持ってる黒い部分を凝縮したような漫画だけど、なんだかんだ言って、そういうとこにとてもおおらかなように思う。



排除するでもなく、特別気を遣うでもなく。
少年漫画みたいな綺麗事ばっかり言うものじゃなくて、ただただ受け入れられている。
やらかい絵柄とブラックユーモアがうまく中和されているのもあると思うが、読んでて心地よい。




敵も味方もいない。みんながそれぞれ愛おしい。
スガオくんの博愛固めがそう教えてくれたように感じたのだった。