必殺博愛固め

日本語の練習

語彙力の高さは思考の深さ?


プロフィールにあるように、わたしはほんとうに生まれてこのかた20年以上日本を離れたことのない生粋の日本人なのに、母語の語彙力がないことが本当に苦しい。



普段からもやもやっと考えてることはたくさんある。

だけど、そのもやもやを形にする術がない。

抽象から具体に持ち込むことが難しい。

だから、こうやって文字にするのもとても苦労するし、考えてることを言い表せているのかも怪しいところがある…



逆もあって、言葉には辞書上の意味はもちろんだけど、成り立ちにも背景がある。

そういう言葉それぞれの微妙なニュアンスの違いを理解して使いこなせたら、頭の中の整理もできるし、言葉があることで、思考に広がりとか深みが出てくるんだなと感じる。






語彙力が豊かな人たちと話していると、この歳になって初めて、自分の表現力の乏しさを痛感させられる…





その分時々、もやもやっとしていたものを、誰かが言葉にしてくれたとき、はっとさせられる。

ボキャ貧にはそういう楽しみもある。


まあでもやっぱり、それを自分で言葉にできることにこしたことはないよなあ、というのの繰り返し。



辞書を愛読書にしようかしら。









けれど、言語化してしまえるものだけが全てかと言われるとそうではないと感じる。

確かに、言葉で表されると納得しやすいし、腑に落ちる。

言語化はある現象を切り取ることだから、ぼやっとした事象に普遍的な意味づけができる。

ただ、きりとれなかった、端切れのような部分はどうなるのか?




世の中に起こる事象って、もっとグラデーション的であいまいなのだ。

ひとくくりにできないほど多様で複雑で、ひとつひとつのニュアンスは突き詰めれば全く異なってくる。





ある意味、それを表す言葉がなくては、感じられない、切り捨ててしまうという状態がとてももったいないように思うのだ。



自分が表現するときはもちろんだけれど、誰かの言葉を読み取るときにも、言葉によって切り取りきれなかった部分に気を遣うことが大切だと思う。


そこが深みだったり趣だったりするのかも。







ボキャブラリーなさすぎることもしんどいけれど、ボキャブラリーにとらわれすぎるのもまた足かせになるのかなと感じたのでした。